ジェーン・ジェイコブスーニューヨーク都市計画革命

家族のケアもあってどこにも出かけることができず、結果、本を読み、映画を見て、街を歩き、その合間に執筆を進めながら過ごした、インプット三昧のGW。

巷で話題の映画「ジェーン・ジェイコブスーニューヨーク都市計画革命」は、1990年代に過ごしたニューヨークでの「初心」を思い出させてくれた。ジェイコブスのお膝元にあったビレッジの一角にあるニューヨーク大学では、都市計画専攻に属しつつ、その技術から都市の政治経済まで幅広く学んだ。公務員でありながらパワーブローカーのモーゼスを巡る都市開発の政治経済学、そして、ジェイコブスが実現した市民が動かす政治のダイナミクスは、学部で政治学を学び都市計画へと転向した自分にとって、いずれも、自分の選択を肯定してくれるストーリーであった。

しかも、住み始めてみたニューヨークで最も魅力的だったのは、そのネイバーフッドの豊かさと多様性。毎週末、地下鉄に乗って町中をめぐり、多様な民族の作り出すニューヨークの異なる顔に驚き、そこで初めてみる食べ物をいただき、会話を楽しんだりした。ロシア系民族が住まうブライトンビーチ、ギリシャ系住民が多いアストリア、カリブ系移民の多いジャマイカ、イスラム系(シーク教徒)の人達が多いリッチモンドヒルなど。「リトル○○(リトルトーキョーみたいな)」が無数にあるのがニューヨーク。しかも、その暮らしと地域の経済がストリートにはみ出して可視化されている。ジェイコブスでなくても、このを活かさずして、何が都市の魅力なのかと思ったものだ。

実は、最近のプレゼンでよく取り上げるPOPS(Privately owned public space)なんて別に面白くもなくて、日本からの視察客に同行するとき位しか行かなかった。ディベロッパーが提供したパブリックスペースで過ごす人は、単にそのスペースの受け手に過ぎない。様々な民族のネイバーフッドは、間違いなく、そこで暮らす人たちがその街並みを魅せている。異なる言語で交わされる会話、そこにしかない食べ物、無数の笑顔。

ネイバーフッドを生かす都市計画と政治経済。継続させる力と自律的に発展させる仕組み - これが私の研究の原点だ。

それを思うと日本で行われているストリートでの社会実験は、まだまだ関係者と少数のサポーターによる自己満足に過ぎないのかもしれない。自然発生的に生まれるストリートライフを生み出すには、遠回りのようだけど、失ったコミュニティの絆を取り戻すしかない。しかも、今日の映画を見ていて、子供たちを巻き込むことが重要だと思った。映画に出てくる子供達のやりたい放題は、なんて素敵なことか。道路での落書き、水遊び、縄跳び・・・。それに比べて、今日の子供達がいかに大人の目を気にしていることか。

(私の小学生時代の密かな楽しみは、近所の人たちの庭を伝って友達の家まで遊びに行くことだった。明らかに不法侵入!こっそりやっていたつもりだが、多分、気づかれていただろう。それなのに、なぜ許されていたか。それは、その庭の持ち主たちを全員知っていたから。つまり地域コミュニティが健在だったから、あそこの子供達が通ってると黙認してくれていたのだ。いや、ひょっとしたら親に通告があったかもしれないが、少なくともそれ以上の問題にはならなかった。もちろん、田舎だったからと言われればそれまでであるが、顔が見える関係か否かは許しあえる行為と大きく関係することには大きな異論はないだろう。)

そんなことで、今日は、研究の原点を思い出させてくれたこの映画に感謝。付き合ってくれた娘にも感謝。前日、友人宅にお泊まりだった彼女はほとんど寝てたけど(苦笑)。原点に返って、GW明けの月曜日からまた頑張ろう。

http://janejacobs-movie.com